宇多田ヒカルさんの「ノンバイナリー」告白について、個人的に思うこと
最近になって知ったのですが、宇多田ヒカルさんがインスタライブのなかで、自分の性別は「男性」でも「女性」でもなく「ノンバイナリー」だと告白したということ。宇多田ヒカルさんの声ときれいなメロディが大好きで、以前はよく聴いていました。確かに中性的な感じはするものの、彼女(っていうのも違う?)の性別について考えたこともなかった。
記事によると、宇多田ヒカルさんは、「『ミセスかミス、どちらで呼んだらいいですか?』と聞かれることや、日常的に『ミス・ミセス・ミズ』のどれかを選ばなきゃいけないことにうんざり」していて、「自分の婚姻状態や性別を前面に押し出す呼ばれ方に違和感しかないし、どの接頭辞もしっくりこない」ということです。
そして、「選ばされる度に、自分を偽ることを強いられているみたい。性自認や社会的立場に関係なく、誰でも使える別の選択肢があったらいい」と主張し、新しく自身が考案した敬称で、ミステリーウタダ(Mys.Utada)と記した画像を披露した、と書いてありました。
私は「LGBTQ」やジェンダー問題に興味はあるほうだとは思うけれど、踏み込んで勉強したことはありません。偏見は全然ないし、ニュースで見るなどのきっかけがあればしばらく意識が向くのですが、日常的に当事者の気持ちを想像する、というほどではない。もっと勉強しなくては、と思っている分野のひとつです。
そんな私ですが、この宇多田ヒカルさんのニュースを読んで、おっしゃっていることがとてもしっくり感じたのです。
性別というのは「女性」「男性」というふうにハッキリと分類できるものではなくて、真ん中の人もいれば、揺れ動いている人もいる。たぶんそういうことなのでしょうね。そして見るべきなのは性別ではなく、「宇多田ヒカルさん」というその人本人なのでしょう。
これと同じことが「発達」についても言えると思うのです。
発達障害の特性だけに着目して「発達障害」と「そうではない人(定型)」とにカテゴリー分けをするのは、もちろん学術上必要なことだと思います。でも、普段の生活のなかでは、その視点だけにとらわれるべきではなく、「発達障害」と「定型」のあいだにもいろいろな状態が途切れなく連続しているということを忘れてはいけません。
つまり、「発達障害の色がものすごく濃い人」と「まったく要素がない人」のあいだには、「真ん中」の人もいるし、「ちょっと色味が濃い寄りの、いわゆるグレーゾーンの人」もいる。さらには、定型と思われているクラスメイトや同僚の中にだって、発達障害の特性がちらほらとみられることもあるのです。
一刀両断に「発達障害」「そうではない人」という括りで見ないで、「その人まるごと」を見ることが大事。一面だけにとらわれてカテゴリー分けするのではなく、発達はバラエティ豊かだという前提で、夫婦の関係も考えていきたいものです。